パフェにリスペクトを。
- 2016/08/23
- 22:10
もう春のことになりますが(つまり書こう書こうと思って延びてしまっていたのですが)、最近よくテレビや雑誌で取り上げられているパフェのお店(あえて名前伏せます)に飲食店関係者が何人かで来て、パフェを大量に注文して、大量に食べ残して去る、ということがありました。
様々な文化事象において共通することですが、ある存在・現象が知名度を高めるプロセスにおいて、新しく参与してきた者が、その文化圏でもともと共有されていたルールを破ったり、あるいは一般常識に照らして非難されるべき行為をする、というのはよく見られることです。
個人的な感覚では、それはいわゆる「ファン」と言われる人の数が桁を上げるごとに如実に起きる現象で、100人→1000人、1000人→10000人といった規模の変化が、もともとのファン文化を変質させていったり、あるいは「古参⇔新参」といった対立を生むことにもなります。
たとえばアイドルが人気を獲得していくにつれて一定数のやっかいなファンが発生してしまったり、アニメの聖地巡礼や、鉄道オタク(鉄ちゃん)において、非難されるべき行為を行ってしまう者が出てしまったりということがあります。
そして、有名店のパフェに適当に手を付けて帰る、という者も出現したわけです。
ここでは、店と客の関係性についてちょいと考えておきたいと思います(先述の事例は飲食店関係者が客となって来ているので、純粋な客と店の関係とは言いづらいのですが)。
最近、お店の方と話をすることも多いのですが、様々なことでお店が対応に困っているという話を聞きます。
たとえば営業時間について、「なぜ休みなのか」、「なぜ今やっていないのか」と文句を言われる、ということがあるようです。「わざわざ来たのに…」、という気持ちは痛いほど分かるし、実際自分も、その日しか行くチャンスがない地方のお店が臨時休業だったりすると、当然ガッカリはするわけです。でもそこで、お店を責めるような気持ちが少しでも起こってはいけない、と常に言い聞かせております(明らかに虚偽の情報を流していたのであれば別ですが)。
最近冗談のように、「パフェの神に愛されていればパフェは食べられる」と唱えていますが、こう考えることが最も心穏やかに過ごせる方法です。お目当てのパフェにありつけないのは、すべて自分に責任がある、ここではそういう自己責任論を持ち込んだ方がいい。
メニューについては、なぜ写真を載せないのかというクレームの一方、写真を載せたら載せたで実物と違う、というクレームが出てくるようです。そういう無用なクレームを防ぐために、メニューをイラストにしているお店もあります。
あとは、出てくるのが遅い、というクレームも多いようです。少しでも考えれば分かることですが、パフェは手間のかかるメニューですから、時間がかかるのは当たり前で、人気店ならなおさらです。なぜか待つということができないお客さんがそれなりに多いようですが、時間が気になるときにはパフェを頼まなければよいのです。前にツイートしたことですが、「待つということが損失だ」と考えてしまう人は、パフェに向いていません。待つ時間も含めてパフェ体験ととらえ、気持ちを盛り上げてパフェに臨める人の方が圧倒的にパフェを楽しめます。
大事なことは、パフェをおいしくするのはパフェを作る人だけではなくて、食べる人の心の持ちようによる部分も大きいということです。
「よいお店」が惜しまれながら閉店する、というのはよくある話ですが、なぜ「よい店」なのかは考える必要があります。いつ来ても席が空いていてのんびりできるお店、は普通に考えて収益が上がっていない。それは客としてはよいのかもしれませんが、お店的には全然よくない事態です。そしてそういうお店が閉店すると決まったやいなや、閉店間際だけ客が増えるということになる。
人気のお店になることは、人気がまだそれほどでもなかった頃からの客にとっては、都合の悪いことかもしれません。いつ行っても混んでいる、落ち着けない、というわけです。行きたい気持ちより行きたくない気持ちの方が大きいなら、行かなければよい、というただそれだけの話なのに、昔の方がよかった、などとつい言ってしまうのですね。
何でもコントロールしようとか、何でもコントロールできる、という考え方はとても危険であるのとともに、実は楽しむということの可能性を狭めているのではないか、と考える必要があるのではないでしょうか。
何事も自らの理解・許容度の範疇内に置くことは、その外の新しい世界から自らを閉ざすことに他なりません。
思っていたのと違ったけど、おいしかった、新しい認識に達した、ということがなくなってしまう。
『東京パフェ学』でのインタビュー原稿にもあったように、「理不尽さを楽しむということ」ができる余裕がほしいものだと思います。
要は、パフェに、お店に敬意を払おう、ということです。
そのことが、実はパフェをよりよく楽しむことにもつながるのですから。
様々な文化事象において共通することですが、ある存在・現象が知名度を高めるプロセスにおいて、新しく参与してきた者が、その文化圏でもともと共有されていたルールを破ったり、あるいは一般常識に照らして非難されるべき行為をする、というのはよく見られることです。
個人的な感覚では、それはいわゆる「ファン」と言われる人の数が桁を上げるごとに如実に起きる現象で、100人→1000人、1000人→10000人といった規模の変化が、もともとのファン文化を変質させていったり、あるいは「古参⇔新参」といった対立を生むことにもなります。
たとえばアイドルが人気を獲得していくにつれて一定数のやっかいなファンが発生してしまったり、アニメの聖地巡礼や、鉄道オタク(鉄ちゃん)において、非難されるべき行為を行ってしまう者が出てしまったりということがあります。
そして、有名店のパフェに適当に手を付けて帰る、という者も出現したわけです。
ここでは、店と客の関係性についてちょいと考えておきたいと思います(先述の事例は飲食店関係者が客となって来ているので、純粋な客と店の関係とは言いづらいのですが)。
最近、お店の方と話をすることも多いのですが、様々なことでお店が対応に困っているという話を聞きます。
たとえば営業時間について、「なぜ休みなのか」、「なぜ今やっていないのか」と文句を言われる、ということがあるようです。「わざわざ来たのに…」、という気持ちは痛いほど分かるし、実際自分も、その日しか行くチャンスがない地方のお店が臨時休業だったりすると、当然ガッカリはするわけです。でもそこで、お店を責めるような気持ちが少しでも起こってはいけない、と常に言い聞かせております(明らかに虚偽の情報を流していたのであれば別ですが)。
最近冗談のように、「パフェの神に愛されていればパフェは食べられる」と唱えていますが、こう考えることが最も心穏やかに過ごせる方法です。お目当てのパフェにありつけないのは、すべて自分に責任がある、ここではそういう自己責任論を持ち込んだ方がいい。
メニューについては、なぜ写真を載せないのかというクレームの一方、写真を載せたら載せたで実物と違う、というクレームが出てくるようです。そういう無用なクレームを防ぐために、メニューをイラストにしているお店もあります。
あとは、出てくるのが遅い、というクレームも多いようです。少しでも考えれば分かることですが、パフェは手間のかかるメニューですから、時間がかかるのは当たり前で、人気店ならなおさらです。なぜか待つということができないお客さんがそれなりに多いようですが、時間が気になるときにはパフェを頼まなければよいのです。前にツイートしたことですが、「待つということが損失だ」と考えてしまう人は、パフェに向いていません。待つ時間も含めてパフェ体験ととらえ、気持ちを盛り上げてパフェに臨める人の方が圧倒的にパフェを楽しめます。
大事なことは、パフェをおいしくするのはパフェを作る人だけではなくて、食べる人の心の持ちようによる部分も大きいということです。
「よいお店」が惜しまれながら閉店する、というのはよくある話ですが、なぜ「よい店」なのかは考える必要があります。いつ来ても席が空いていてのんびりできるお店、は普通に考えて収益が上がっていない。それは客としてはよいのかもしれませんが、お店的には全然よくない事態です。そしてそういうお店が閉店すると決まったやいなや、閉店間際だけ客が増えるということになる。
人気のお店になることは、人気がまだそれほどでもなかった頃からの客にとっては、都合の悪いことかもしれません。いつ行っても混んでいる、落ち着けない、というわけです。行きたい気持ちより行きたくない気持ちの方が大きいなら、行かなければよい、というただそれだけの話なのに、昔の方がよかった、などとつい言ってしまうのですね。
何でもコントロールしようとか、何でもコントロールできる、という考え方はとても危険であるのとともに、実は楽しむということの可能性を狭めているのではないか、と考える必要があるのではないでしょうか。
何事も自らの理解・許容度の範疇内に置くことは、その外の新しい世界から自らを閉ざすことに他なりません。
思っていたのと違ったけど、おいしかった、新しい認識に達した、ということがなくなってしまう。
『東京パフェ学』でのインタビュー原稿にもあったように、「理不尽さを楽しむということ」ができる余裕がほしいものだと思います。
要は、パフェに、お店に敬意を払おう、ということです。
そのことが、実はパフェをよりよく楽しむことにもつながるのですから。
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